DAY 43 気仙沼の被災地を訪ねて

  • 2015/12/02

気仙沼での滞在も早いものであと2日。終日滞在するのは今日が最後ということで、杉浦さんにお願いして今日は1日気仙沼の被災地を見てまわることにしました。

せっかくなので今日の様子を動画にまとめようということになり、気仙沼出身の映像クリエイター・村上俊さんにご協力いただくことになりました。出発前にco-baにて打合せ。気仙沼で私が見て、感じたことを学生に伝える際の導入部分として使うことを想定して、今日1日を切り抜いてもらうことにしました。

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▲どんな動画にまとめるかco-baにて打合せ中。

最初に訪れたのは気仙沼のco-baから車で南に20分ほど走ったところにある元吉町野々下海岸。市内で最も早く工事が始まった防潮堤だそうで、完成すると高さ9.8m、長さは190mほどになります。写真ではその巨大さが伝わりにくいと思いますが、実際に近くまで行くとあまりの巨大さに圧倒されます。

海岸全体をコンクリートの鎧で覆うような印象です。ずっと先まで海岸線は工事が進んでいて、この辺りの風景は以前とはまったく違うものになるのでしょう。

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▲野々下海岸の巨大な防潮堤。

野々下海岸から少し北にあがったところにある御伊勢浜。ここにも高さ9.8mの防潮堤が建設予定です。細い水路の河口にある水門には、津波の引き波で運ばれたのか、何かの建物が横倒しで引っかかったままになっていました。近くには破壊された防波堤が残っていました。

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▲ゆがんだ手すりと高く積まれた土。

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▲水門に何かの建物が引っかかって残っていました。

続いて向かったのは階上地区にある気仙沼向洋高校の跡地。津波の被害で校舎は全壊し、現在は気仙沼高校のグラウンドに仮設校舎を建設して授業が行われています。建物に残った痕跡から津波が校舎の4階の高さまであったことが分かります。

震災の年は向洋高校の創立110周年で新しい校舎が完成間近だったそうです。すっかり壊れてしまった校舎や体育館を見ると、「もし自分があの日ここにいたら助かっただろうか」という思いとともに、恵まれた環境で学べることのありがたさを感じます。

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▲傷跡から校舎の4階まで津波が押し寄せたことが分かります。

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▲津波で破壊された体育館。1階部分が鉄筋コンクリート造で上部は鉄骨造だったようです。

幸いにも当時学校にいた生徒・教職員は全員無事だったそうですが、以下の向洋高校のページで紹介されている震災当日の様子を見ると、当時の緊迫した様子が伺い知れます。

宮城県気仙沼向洋高校「東日本大震災の記録」
http://www.kkouyo-h.myswan.ne.jp/date/00%20index/file/sinsaigenkou(kesennnumakouyou).pdf

最後に訪れたのは気仙沼市の鹿折地区。ここは気仙沼港の北側に位置しており、震災では港からと地区の東側を流れる川との二方向から津波の被害を受けました。住宅や工場などがあったようですが津波によってほとんどが破壊され、多くの大型漁船が流されてきた場所です。大規模なかさ上げ工事が行われていて、その様子が見られる展望台が設けられていました。

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▲かさ上げ工事の進む鹿折地区。以前の様子はまったく分からない。

以前ここがどんな町だったのか、今では想像もできません。たまたま展望台でお会いした女性お2人が当時の様子を話してくださいました。お1人は近くの鹿折唐桑駅で腰まで水に浸かりながら柵につかまって何とか助かったそうです。「線路のところをがれきや人が流されていったんですよ」。お2人は現在も近くの仮設住宅で生活されているそうです。

これから復興に向けて工事が進んでいくと、現在はまだ残っている震災の傷跡も見た目には分からなくなるのかもしれません。今回現地で見て、感じたことを、広島に戻って学生たちに伝えなくてはならないと強く思った1日でした。

Profile  光井周平

1983年広島生まれ。幼少期から城好きだったことが要因で中学校卒業後に呉工業高等専門学校(呉高専)建築学科に入学。 卒業後は広島大学に編入学をして、大学院工学研究科博士課程前期、後期を経て母校である呉高専に教員となる。 専門分野は建築構造で、助教として主に木造建築に関する研究をしている。 学生とともに呉市両城の空き家再生プロジェクトに取り組み始めて以来、“場(空間)”と“そこに集う人々”が地域の活性化に どのような役割を果たすのかに関心がある。2015年10月から12月まで民間企業研修のためツクルバで活動中。